質素

なれない一人暮らしのような質素な部屋は少しの寂しさはあるものの、沼のようなあなたと過ごした部屋に比べたらマシに見えた

シワの寄ったシーツ ソファー テレビ全てが私の実家よりかは私を縛り付けていたあの部屋に似ていた気がした

終わった関係を今更戻そうとは思わない

だから一方的に終わらせた

今更寂しいと伝えたら彼女はどんな顔をするのだろうか

笑顔と暗がりの部屋で見た顔と何度か泣き顔を見た しかし怒った顔は見たことが無かった

だから必要としたら あなたを求めたら

「やっぱり君には私が居ないとダメなんだよ」

と言われる気がした

オーラ1

私はオーラが見える

信じてくださいとは言いません

オーラ いわゆる第六感は大衆的な事柄では無いですもの

なので私も本当にこの人には私の全てをさらけ出したい、知って欲しいと思わない限りは話しません。

前述した通り大衆的な事柄では無いからこそ話された相手のリアクションは様々です。

でも少しでも興味を持ってくれたなら私の全てを使い知ってもらう、これが私の信念でもある

よく友人から口が上手いと言ってもらうことがその信念が根源にあるからだと思う。

だいぶ話が逸れましたね

ここまでの文を読んで興味が持てなかったという方はぜひ自分の好きなことに時間を使うことをオススメします。

逆に興味をもってくれたのなら不可解な自語りにもう少々お付き合い下さい

 

 

2に続く

友達としての線引き

私は友達が少ない 

Aくんから見た私は友達が多いやつに見えるかもしれない でもBちゃんから見た友達は少ないのかもしれない

何か対象に対する事柄を決めるのはいつだって自分自身 

私の友達としての線引きというものがございましてそれは2つある

①結婚式に呼べるかどうか

②自分の持っていない能力を何か一つ秀でていて尊敬できるか

この2つどちらかでは無く両方に当てはまる人を私は友人と呼んでいる

だから私には知り合いは多いが友達が少ない 

だからこそ数少ない友人にはとことん尽くす

自分の人生を豊かにして自分に少なからず影響を与えてくれる尊敬できる人物だからこそ大切にしようと思う

ここで質問です

あなたの友達の基準とはなんですか?

事実的な死

みなさんは「死んだ」って口に出した事は有りますか?

私はあります。 ゲームでの「死んだ」課題が終わってなくて「死んだ」その他諸々

ふと疑問に思ったのですが私達が一個人として体感出来る死とはなんなのでしょうか

社会一般的な死とは事故や自殺などの死が上がるとは思いますがそういった類のものはひしひしと死に際に「あぁ死ぬなぁ」なんて思うのかもしれません 

しかし私たちは体感することはできない

だって今この文を書いている私も この文を読んでいるあなたも生きているじゃないですか

そこで私の考える死とは 自分の考えを言えなくなった時なのかな といった考えに至りました

そうなる根拠は簡単です

自分の中の発想 考えを殺しているじゃないですか 

例えばグループワーク 自分以外のメンバーがA自分だけがBの案をあげるとしましょう

その場合Bの方は多数派の上げたAに心から賛成してるわけでも無ければBの意見も言えない

貴方がそのグループに存在する意味はなんなの?って言った具合ですかね

意見を言うことが生をまっとうするとまでは言いませんが 自分の人生好きに生きたいじゃないですか

ならば自分の生きた発想をねじ曲げられたらとしても発するしかないのです

だから私の思う「死」とは自分の意見を言えなくなった時ではないのかな と考えました

 

伏演

元恋人と別れてもちゃんと時間を置いて再開して友達に戻れるのって羨ましい。

あの時はお互い愚かだったよねとか言い合えるのも羨ましい

そんな大人にはなれないとは思っている

再会する正しさもあれば再開しない正しさもある

ちなみに私はいま前者である